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樺太引揚者による戦後開拓の足跡 - 中山分校跡

 1945年の太平洋戦争敗戦後、国内外で戦災にあった4万5365戸が北海道で開拓に従事する事となる。大野町(現北斗市)でも、国道227号線に面する中山地区に樺太からの引揚者38戸が入植する事となる。
入植した38戸には緊急開拓地として509haが割り振られた。当初は焼畑による開墾を目指したが、畑作は軌道に乗る事は無く、牧草地を広げ、酪農に活路を見出す事となる。
 開拓者の子弟の教育は学校のある都市部と遠距離であった為、冬期間の通学に大きな支障をきたしていた。子弟の教育の充実の為、昭和29年(1954)1月、中山地区の人々の手により大野町立市渡小学校中山分校が設立された。1年生から4年生までの複式学級となっており、最大事で児童が28名、在校する時期もあった。  酪農の不振から離農が増え、過疎地域となっていき、平成4年(1992)に入学する児童・在校生が0名になった為、38年3ヶ月の歴史を閉じる事になる。。

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[ 2011/10/07 22:01 ] 渡島支庁 北斗市 | TB(0) | CM(0)

松浦判官宿泊聴佛法僧之地

道北の内陸部、天塩川上流に音威子府村がある。2010年11月現在、北海道で一番人口の少ない市町村である。音威子府の名前が歴史に登場するのは、1797(寛政9)、「松前地並西蝦夷地明細記」で、「ヲトヱ子フ」と表記される事から始まる。
1857年(安政4年)に松浦武四郎が自身5回目の蝦夷地調査の際に現在の音威子府村筬島付近を訪れる。付近にはアエトモの家族7名、トキノチの家族6名からなる2件の集落があり、そこで宿泊をする事になった。夜にり「ホッホッホッホッ」と鳥の鳴き声が聞こえてきた。アエトモが、昔最上ニシハが内地にもいる仏法僧という鳥だと言い、「余も始て仏法僧なる事を知りたり」と手塩日誌に書いている。



武市安哉(自由民権運動家・クリスチャン)の墓

 土佐(高知県)出身の自由民権運動家でクリスチャンである武市 安哉は、坂本直寛と同じく浦臼町にある札的地に眠る。
安哉は、鳥羽・伏見の戦いに土佐藩士として参加、維新後は小学校教員や大区長などを転身し、明治9年に立志学舎に入り、自由民権運動に身を投じていく。明治12年には県会議員となり、明治14年に県会議長を務めるなど発言力を強めるが、明治20年の三大建白運動中に保安条例違反により片岡健吉、坂本直寛らと共に2年間投獄される事になる。その後、明治22年2月11日、保安条例が解除され、憲法発布の恩赦により多数の民権家と共に開放された。そして、明治25年2月に行われた選挙に立候補し、国会議員に選出される事になる。
 国会議員に選出された安哉は、明治25年10月に北海道へ視察をする機会を得ることになる。石狩の大地に立った安哉は、政界に蔓延っている腐敗により民意が反映されていない国政よりも、北の大地へ希望を見出す。安哉は、明治18年に片岡健吉、坂本直寛らと高知教会にてキリスト教へ入信している。この北の大地にキリスト教の理想郷設営を思い立ち、視察中に月形集治監用地189万坪(630ヘクタール)の払い下げを申請する。受理された後の明治26年4月には国会議員を辞任。辞任後の明治26年7月に前田駒次、土居勝郎ら27人と共に浦臼町札的に移民を実施し、聖園農園を開く。翌27年4月に二回目の移民を受け入れ、三回目の移民を募集する為に高知へ向かう船中にて急死してしまう。明治27年12月2日、享年48歳であった。


[ 2010/10/31 08:25 ] 空知支庁 浦臼町 | TB(0) | CM(0)

坂本直寛(龍馬の甥)・弥太郎の墓

 坂本直寛は龍馬の甥にあたる。本家5代目当主である。自由民権運動に身を投じ、立志社時代には憲法起草委員として「日本憲法見込案」の起草。高知県議員に当選し政治に深く関わっていた。同時に敬虔なクリスチャンでもあり、1885年に高知基督教会が設立された後、同教会にて洗礼を受けキリスト教徒となっている。
 1896年、片岡健吉らの勧めやロシアの南下の憂いもあり北海道開拓に乗り出す事になる。キリスト教系移民団である「北光社」を高知にて設立し、一族合わせて600名にて北見訓子府へ移民を実施する。
 その後、浦臼にて武市安哉が開いた聖園農場へ移住し、明治37年には旭川日本基督教会にて按手礼を受ける。その後は牧師として十勝監獄や旭川師団など囚人や軍人に対する伝道に尽力している。明治42年には札幌へ転居し、札幌北一条協会の牧師となり。明治44年、胃ガンで没している。
 坂本直寛は札幌の円山の麓にある円山地に葬られている。坂本直寛の石の並びには長女・直意(なおひろ)の婿養子である坂本弥太郎のもある。弥太郎は材木業を営むなど商才も豊かで、札幌にて議員を務めるなど政治への参加も行っていた。直寛と同じく敬虔なキリスト教徒でもある。


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坂本直寛の(郷士坂本家5代目当主)
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坂本直寛の石裏側
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坂本一族の全景
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坂本弥太郎の墓(郷士坂本家6代目当主)
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坂本弥太郎の墓(郷士坂本家6代目当主)
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所在地 札幌市中央区南4条西28丁目
電話番号 -
休み -
時間 -
交通 地下鉄東西線円山公園駅から徒歩10分
駐車場 無し
利用料金 無料


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江別屯田第三大隊火薬庫跡

 江別屯田兵の始まりは明治11年8月に岩手県より10戸が入植する事に始まる。入植当初は琴似屯田の第一大隊付属分隊となっており、明治20年に江別と篠津の屯田をあわせて第三大隊が編成されることになる。第三大隊は萩ヶ丘に大隊本部が置かれ本部及び付随施設や練兵場が整えられる。
 本火薬庫は、明治19年頃に建てられたと推測されている。明治24年2月に行われた第三大隊(江別・篠津)と第五大隊(滝川)の統合によって江別屯田の予備役編入に伴い大隊本部が滝川に移り、第三大隊本部は本部としての役割を終える。。大隊本部及び付随施設については別用途で使用されていたが昭和9年の火災で焼失。当時の建設物は本火薬庫のみとなっている。明治32年の江別尋常高等小学校の開校から戦後まで奉安殿として使用され、太平洋戦争後、校舎の改修工事の際に現存の位置へ移築され現在にいたる。


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裏側
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所在地 北海道江別市萩ヶ岡19
電話番号 -
休み -
時間 -
交通 江別小学校横、江別駅より徒歩5分
駐車場 無し
利用料金 無料


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[ 2010/04/21 08:30 ] 石狩支庁 江別市 | TB(0) | CM(0)


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