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松前藩と榎本軍の激戦地 - 稲倉石古戦場と碧血碑

 慶応3年(1867)大政奉還により徳川幕府の交戦派と薩摩長州を中心とした倒幕派との間で戊辰戦争が勃発する。当初、松前藩は佐幕派であったが、慶応4年(1868)7月に下国東七郎ら尊皇派が正議隊を結成してクーデターを起こし、一転倒幕派へと変わる事となる。

 クーデター後、東七郎により濁川、糠野川などに囲まれた丘陵部に館の築が計画される。新政府の箱館府に許可を得、明治元年(1868)9月に着工し、翌月の10月25日頃には簡素ながらも館として完成している。東北情勢が不安定な中での築であったため、空堀、板柵などの防備しか持たずにとして未完成ともいえる内容であった中で、榎本軍の上陸となる。

 鶉川上流部である稲倉石は断崖絶壁に囲まれた山道となっており、館の防御の為の前衛として要所であった。松前藩はここに木柵や砲座などを用意し関所として整備を実施する。そして、明治元年(1868)11月15日早朝には松岡四郎次郎率いる一連隊200人余りと稲倉石の守備兵100人あまりの間で戦闘が開始される事となる。当初は一進一退の攻防を繰り広げたが、松前藩の大砲の弾薬が切れるのを契機に劣勢となり、一連隊による正面と左右の山間部に分かれる、多方面攻撃に堪えられなくなった松前藩兵は館城へ後退する事となる。松前藩と榎本軍の間で行われた戦闘で一番の激戦はこれにより幕を閉じる事となった。

 大正8年8月、蠣崎知次郎らの有志によりこの地に碧血碑が建立され、戦没者を弔いとした。その後、鶉ダムの建設により水没地域になる為、昭和51年に碧血碑を現在の地に移設し現在に至る。国道227号のパーキングエリア内に設置されており、ダム湖を見下ろす景観地になっている。  



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アイヌのシカ送りの跡 - アオシマナイ遺跡

 アオシマナイ遺跡は、1967年に発見され、1971年には、北海道教育委員会により本格的な測量調査がされ2連の壕からなるアイヌのチャシ跡と周辺に多くの貝塚が分布する大規模な遺跡である事が確認された。耕作により貝塚部分は多くが欠損していたが、チャシ跡については故山谷忠男と家族により保存が続けられてきた。

 その後、道路拡張工事に伴い、1996年(平成8年)から2000年(平成12年)に実施された緊急発掘調査において二層の火山灰(駒ケ岳C2=1694年噴火・樽前a=1739年噴火)に挟まれた状態で貝塚を確認、近世アイヌの物である事が判明する。下層からは縄文時代早期の土器や長軸9メートルを越す大型住居、竪穴式住居などの遺構が出土している。

 遺跡内より人為的に加工されたエゾシカの頭骨が多数発掘された事により「シカ送り」の儀式が執り行われていたと考えられている。




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[ 2011/10/11 08:10 ] 網走支庁 小清水町 | TB(0) | CM(0)

樺太引揚者による戦後開拓の足跡 - 中山分校跡

 1945年の太平洋戦争敗戦後、国内外で戦災にあった4万5365戸が北海道で開拓に従事する事となる。大野町(現北斗市)でも、国道227号線に面する中山地区に樺太からの引揚者38戸が入植する事となる。
入植した38戸には緊急開拓地として509haが割り振られた。当初は焼畑による開墾を目指したが、畑作は軌道に乗る事は無く、牧草地を広げ、酪農に活路を見出す事となる。
 開拓者の子弟の教育は学校のある都市部と遠距離であった為、冬期間の通学に大きな支障をきたしていた。子弟の教育の充実の為、昭和29年(1954)1月、中山地区の人々の手により大野町立市渡小学校中山分校が設立された。1年生から4年生までの複式学級となっており、最大事で児童が28名、在校する時期もあった。  酪農の不振から離農が増え、過疎地域となっていき、平成4年(1992)に入学する児童・在校生が0名になった為、38年3ヶ月の歴史を閉じる事になる。。


[ 2011/10/07 22:01 ] 渡島支庁 北斗市 | TB(0) | CM(0)


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